「回り道を恐れずに、夢へ向かおう!」

荒木 秀明さん

長岡高専 物質工学科 教授

荒木 秀明

経 歴

1994年 長岡高専 電気工学科 卒業
1996年  新潟大学 理学部 物理学科 卒業
1998年  新潟大学大学院 自然科学研究科 博士前期課程 修了、修士(理学)
2001年  長岡高専 物質工学科 助手
2004年  新潟大学大学院 自然科学研究科 博士後期課程 修了 博士(工学)
2007年3月 - 2007年8月 ドイツ Hahn-Meitner Institute, Berlin 在外研究員
2008年  長岡高専 物質工学科 准教授
2011年10月 - 2015年3月 (独)科学技術振興機構 さきがけ研究者(兼任)
2017年 長岡高専 物質工学科 教授
詳しくはこちら:https://material.nagaoka-ct.ac.jp/staff/hideaki-araki//

“勘違い”で物質工学科の教員に!?

──荒木先生は電気工学科のご出身ですが、別の学科の先生になるのは珍しいですか。

 そうですね。機械・電気・電子制御は、専攻科で電子機械システム工学専攻に統合されるように非常に近い領域ですが、物質工学科、環境都市工学科では珍しいかもしれません。

 実は、私が教員に応募した時、ちょっとした勘違いがありまして(笑)。私の在学中は「工業化学科」だったのですが、1994年に改組されて「物質工学科」となったので、自分の専門分野である材料化学により近づいたと思ったんです。ちょうど博士課程の修了が近づく頃に公募が出ていたので、さっそく電話を入れてみました。

 すると、当時の学科長が「知り合いに化学の専門家はいませんか?」と言うんです。「僕が応募しているのに他人の紹介を頼むなんて、失礼だなぁ」と思いつつ、話をしていると「“タンイソウサ”って知っていますか?」と聞かれて。てっきり、物理量の単位換算の話だと思って「そのくらい、できますよ」と答えたのですが……。単位操作というのは、化学製品を製造する過程を、反応や分離といった個別の操作の組み合わせとして理解する概念のことだったんです。その時、募集していた専門分野は、私の専門のど真ん中ではなかったのですが、ご縁があって採用してもらい、今に至ります。

──いきなり仰天エピソードが飛び出しましたが(笑)、材料化学を志したのはいつ頃からですか。

 子どもの頃から化石や化学実験など、とにかく科学が大好きで、博物館にもよく通っていました。自然科学の中でも「材料を研究したい」と思い始めたのは中学生の時です。きっかけは、授業で東京大学の物性研究所が監修した『極限の世界 超高圧・超低温・超強磁場』という映像を見たことでした。すごいインパクトで、ずっと記憶に残っています。その後、高専の卒業研究で太陽電池の研究テーマに出合い、本格的に研究者を志しました。

現在、荒木先生が手掛ける太陽電池のミニモジュール(左)とセル(右)。セルには約4×4ミリ角の太陽電池セルが8個並んでいる。写真のミニモジュールは12.5×25ミリのセルを8個配線し、動作するようにしたもの

落ちこぼれからスタートした高専生活

──気になるのは、物質工学科(工業化学科)ではなく、電気工学科に進学した理由です。

 そもそも高専に行こうと思っていなくて……。第一志望は普通高校で、中学校の担任の先生に「力試しで受けてみたら」と言われ、高専を受験しました。力試しのつもりで、あえて当時、一番倍率の高かった電気工学科を第一志望にしていたんです。そうしたら、なんと受かってしまったのです……!

 他校との併願受験ができなかったので、普通高校の受験日が迫る中、手にした切符を手放すのか、決断を迫られました。中学校の先生に「1席差で落ちた子が泣いているぞ」と言われ、先生に口説かれるような形で高専にしました。今、自分も教員になって考えると、私の得意なことや適性を見抜いて、高専を勧めてくれたのかもしれませんね。

──入学前に、気持ちの切り替えはできましたか。

 無理でした。全然モチベーションが上がらないので、当然、成績も振るわず、1年生の時はクラスで最下位に近かったです。勉強する気もなければ、勉強の仕方も分からない、ますます授業が分からない……という悪循環に陥っていました。

──なんと……! そこから、どうやって打開していったのですか?

 2年生になって電磁気の授業が始まったことが転機になりました。その先生が授業中に、わざわざ机まで来て「ちゃんと解きなさい」と言って、解けるまで教えてくれました。やる気がないから、と見捨てずに、きちんと向き合ってくれたんですね。おかげで、電磁気だけはできるように。電磁気は、電気工学科の中でもコアとなる科目なので、そこから少しずつ他の科目とのつながりも見いだせるようになって、勉強のコツもつかんでいきました。その結果、徐々に成績も上がっていきました。

──まず、何か一つでも得意なことがあると、突破口になりますね。

 もう一つ、自分の武器になったと言えるのは、実験です。電気工学は、複合的な分野なので、当時のカリキュラムでは機械実習で旋盤、溶接、鋳造といった機械加工も経験しましたし、化学、物理の実験・授業も一通り行いました。それが後々、すごく自分の身を助けてくれました。卒業する頃には、すっかり「電気大好き」になっていましたね(笑)。

「恩師との出会い」と「時の運」

──現在の基盤を築いた、高専の卒業研究についても教えてください。

 私は、片桐裕則先生(現・三条市立大学 教授、長岡高専 嘱託教授)の研究室に入りました。片桐先生は、太陽電池の分野の中でも、レアメタルを使わずに、銅、亜鉛など身近な元素のみでつくる材料研究で、パイオニア的な存在です。私が学生の頃はまだ大きな成果を出される前でしたが、2008年には長岡高専で制作した太陽電池で、当時世界一の発電効率の記録を樹立されました。

 片桐先生との出会いは大きかったです。研究には厳しい先生でしたが、学生と一緒にすごく楽しそうに研究されていて。そんな先生の姿を見て「高専の先生っていいな」と憧れを抱くようになり、「自分も世の中の役に立つ材料を開発したい、半導体材料をもっと究めたい」と本気で研究者を目指すようになりました。

 そして今、私も研究室を主宰する側となり、学生にも自分で生み出した材料がデバイスとして動作した時の感動を味わってほしいなと思っています。

研究室の学生と実験をする様子

──大学の編入学先はどのように決まったのですか。

 4~5年生になると成績も良くなっていたので、気を抜いてしまい……。立て続けに2校落ち、「このままじゃマズい」と物理の試験問題を必死で解き、ようやく3校目で合格通知が届きました。ただ、その大学は2年次への編入学でした。その後、新潟大学の理学部が3年次編入で学生を募集するという情報が入りました。初年度で過去問もなかったですが、合格することができました。この時も物理が受験科目にあり、その中でも電磁気学が得意で本当に良かったと思いました。

──受験でも、得意分野が大きな武器になったのですね。

 大学院入試の時も試験科目に電磁気学と、実験技術の知識を問う科目があったんです。学部1年生からいる他の学生たちが、実験の科目で苦戦する中、私は高専で鍛えられていたので突破することができました。ちなみに、大学は修士課程まで理学部でしたが、指導教員の退職に伴い、博士課程から工学部に移籍しました。そうしたら、所属した研究室の共同研究先が、なんとあの『極限の世界』の東大の物性研だったのです!

──新たに編入学の枠が設けられたタイミングも、幸運でしたね。

 そうなんです。ちょうど高専5年生は20歳になる年で、成人式の日に小学校のタイムカプセルを開けて、驚きました。なんと「将来、科学者になるために、新潟大学 物理学部に行く」と書いてあったのです。小学生の時に足しげく通っていた博物館の先生から「科学者になって研究がしたいのなら」と助言してもらっていたんですね。実際には新潟大学に“物理学部”はないので、子どもらしい間違いですが、これを見たときに感慨深いものがありました。

──「運も実力のうち」と言いますが、チャンスはいつ訪れるか分からないものですね。

 私も工学(高専)→理学→工学と渡り歩いてきましたが、自分の得意なことを軸に、周辺領域の知識、人脈も少しずつ広がっていきました。自分の引き出しが増えていくような感覚です。結果的には、回り道して良かったと思っています。

 なので、高専生には、いろんなことにチャレンジして自分の可能性の幅を広げてもらいたいと思っています。特に、社会に出る一歩手前である研究室に配属された学生には、積極的にさまざまな機会に参加することで、自分のやりたいこと、なりたいものに挑戦できるだけの実力を身に付けてもらいたいと願っています。

 私が高専に入学した日、「今日から皆さんは(人に教わる)生徒から(自ら学ぶ)学生になります」と校長先生が言っていたことが今でも印象に残っています。長岡高専は、自由な校風で、それは早いうちから自立するためでもあります。私も思い出されるのは失敗談ばかりですが、皆さんも、失敗を恐れずに、精一杯、自分の道を歩んでほしいですね。

【取材・文】堀川 晃菜(長岡高専2007年卒)

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